ミュージアムのひととき

第6回 Heʽe nalu (ヘエ ナル)

-ハワイアンの伝統的なスポーツ、サーフィン

今回のタイトルの heʽe はハワイ語で滑る、nalu は波、という意味がありますから heʽe nalu で波を滑る、波に乗るサーフィンのことを表します。ハワイアンホール1階に展示されているサーフボード、そして日よりロングギャラリーでワイキキが誇る名サーファー、デューク・カハナモク展の開催も予定されていることから、今回のトピックはハワイアンのサーフィンとワイキキに関するお話です。

ジョンR.K. クラーク著の「ハワイアンサーフィン」によれば、ハワイの伝統的な娯楽はサーフィン、クリフジャンピング(飛び込み)、ホルア(そりすべり)、ボクシングなど数々ありましたが、中でもサーフィンは男性、女性、子供、身分が高い人から平民まで皆に楽しまれていたスポーツであったと言われています。クラークは1778 年にハワイを訪れた初の西洋人、キャプテンクックの航海日記から当時のハワイアンがサーフィンを楽しむ様子を記載している部分を引用しています。ハワイ島ケアラケクアで20 30 人のハワイアンが沖へ出てボードを器用に使いこなし波に乗り、岸に戻ってくる様を驚きと感心の念を込めて記録していると伝えています。

-サーフボード 

ハワイ語でpapa は板、ボードという意味で、サーフボードは papa heʽe nalu (パパ ヘエ ナル)と呼ばれていました。

クラークは著書の中で1896 年に Thomas Thrum がハワイ島コナの伝統的なサーフボード製作についてHawaiian Almanac に書いた記事を引用しています。それによれば、ハワイアンはボード製作に最適な木を選び、クムと呼ばれる赤い魚を捕らえ、その木の幹に魚を供えてから木を切りました。その後、木の根元に穴を掘り、魚を入れて祈りを唱えていました。この儀式の後、木の幹は枝などを切り落とし希望するボードのサイズ、形に整えられてから海辺に建てられたハーラウと呼ばれるカヌーハウスに運び込まれ、仕上げの作業が行われました。

クラークはTe Rangi Hiroa 著の “Arts And Crafts Of Hawaiʽi” も引用し、ボードのサイズにカットされた木の幹は粗い珊瑚で削り軽石でこすり形を調整し、その後ティーの根かククイの木の皮をすり潰して搾り出した液でボードを黒く着色していたと伝えています。ククイの実を燃やした煤も着色に利用されることがあったといいます。黒の着色についてはウィリウィリの木で製作されたボードを泥の中に漬け込んだり、バナナの実のジュースやハラの葉を燃やした煤の使用例も記録が残っています。黒の着色が乾いたらククイオイルが仕上げに塗られていました。

サーフボードには少なくとも種類あり、それぞれPapa olo, Papa kīkoʽo, Papa alaia, Papa liʽiliʽi と呼ばれていました。

Papa olo : 幅が細く、厚く、重く、ボードの両先端に丸みがあり、長さは約14ft から16ft 4.25m から5m )の長いボード。一般の民衆ではなく、主に身分が高い人に使用されていた。

Papa kīkoʽo Papa olo と似ているが、papa olo ほど厚みがない。テールに丸みがあり、板の表面は平ら、長さおよそ9ft から16ft 2.7m から5m )。

Papa alaia :もっとも一般的なサーフボード。上種のボードよりとても薄く、軽く、短い、しかし幅は太く、6ft から9ft 1.8m から2.7m )の長さ。

Papa liʽiliʽi 6ft 1.8m )以下の長さの一番短いボード。Liʽiliʽi とは小さいという意味。

ハワイ島カイムやカラパナの住人はサーファーとして知られていました。古くからのサーファーはコアの木で作られた大きなボードを持っていました。一方でプナ地方の人たちはコアが手に入りにくかったので、マンゴーやモンキーポッドの木で、またそれらの木が見つからないときにはウルの木もボード製作に利用したそうです。

しかし1950 年代になるとカリフォルニアからフォームボード(ウレタンフォームとファイバーグラスで作られたボード)が導入され、ワイキキビーチでも1954 年からフォームボードのレンタルが始まりました。その後1960 年代になると木製ボードは終焉を迎えました。

<デューク・カハナモク>

ハワイの名サーファーであり、1912 年から1924 年の間に開催されたオリンピックでつの金メダルとつの銀メダルを獲得した水泳選手であったデューク・カハナモクはワイキキのカリア(現在のヒルトンハワイアンヴィレッジが建つ場所)育ちです。クラークは1965 月のサーファーマガジンの中で、彼が所有するうちのひとつ、papa olo について語っている記録を引用しています。彼のボードは長さ16ft 5m )、幅22 インチ(56 センチ)、厚さ3.5 インチ(センチ)でセコイア(アメリカスギ)製でしたが、当時のサーファーの殆どは木のボードではなくフォームボードを使うようになっていました。デュークは友人のフォームボードと自分の木製のボードを交換してワイキキのカヌーズで試してみましたがどうも使い心地が良くありませんでした。「私は木製ボードだけをこれからも使用する、なぜならより安定していて操作しやすいからだ。フォームボードのようなトリッキーなボードはあれ以来乗っていないよ。」

a display case with a surfboard and paddles in it.
(1)ケースの壁 一番上の作品 サーフボード オロスタイル コア製 リリウオカラニ コレクション

当博物館の創設者であるバニース・パウアヒ王女の父、アブナー・パキが所有していたサーフボードと言われています。このように大きくて重いボードを扱うには強健な身体と波乗りの技術が必須であり、彼はそれに大変優れていました。「オロ」は長いサーフボードでウィリウィリというコアよりも軽い木で作られることもあり、首長達に使われるボードでした。このサーフボードは1830 年頃使用されていたものと思われます。

パキはマウイ島とハワイ島のカメハメハとキワラオ一族の子孫でありコニアの夫でした。彼は最高裁判所の裁判官や貴族院の議員、オアフ島知事、枢密顧問官、そしてカメハメハ三世の侍従として仕えました。

a display case with a surfboard and paddles in it.

(2)縦サーフボード 左端 サーフボード アライアスタイル コア製 カイウラニ コレクション

このサーフボードはよくサーフィンをしていたことで知られているビクトリア・カイウラニ王女が所有していたと思われます。この大変薄いアライアボードには二箇所、木片を当てて修繕したところがあります。

ヴィクトリア・カイウラニはミリアム・リケリケ王女とアーチボルド・クレッグホーン知事の娘でした。彼女はリリウオカラニ女王のお気に入りの姪であったことから、将来伯母の後を継ぎハワイ王国の次の女王になると公言されていました。1893 年のハワイ王国転覆の後、カイウラニはハワイ王国の復興に向けて精力的に活動していましたが残念ながら実を結ばず、その後1899 年に23 歳で亡くなりました。

-サーフウェア

クラークはWilliam Brigham の著書 “Ka Hana Kapa: The Making of Bark-Cloth in Hawaii “ からハワイアンのサーフウェアーについて引用しています。ハワイの首長は水浴びをする時カマニの実のオイルに浸したカパで作られた褌だけを使っていたようであると述べています。カマニオイルに浸すことによりカパがしなやかになり、耐水性が強くなり、発色がよくなったようです。破れないカパなどありませんでしたが、水泳や釣り、カヌーパドル、サーフィンをする分には十分耐水性のある素材だったようです。

女性がサーフィンをするときは耐水性をつけたパウ プアカイと呼ばれるスカート、一方男性は耐水性をつけたマロ又はマロ プアカイと呼ばれる褌を身に着けるのが一般的だったようです。プアカイとはノニの樹皮で赤く染めたカパを意味しますが、水着として使用するものの名称として用いられていました。

-サーフィン チャント(波を呼ぶお祈り)

クラークは伝統的なサーフィンのチャントとして「ク マイ チャント」がよく知られてると伝えています。このチャントを唱えると波を呼ぶと言われています。

Kū mai. Kū mai.  起きよ。起きよ。  

Ka nalu nui mai Kahiki mai.         カヒキからの大きな波。

Alo poʽi pū.               力強く波立つ。

Kū mai ka pōhuehue.           ポフエフエの蔓よ、起きよ。

Hū kai koʽo loa.             大きくうねる波が立ち上がる。

サーフィンのチャントはよく儀式の中で唱えられ、それにはpōhuehueと呼ばれる浜朝顔が詠われています。Pōhuehue の蔓は強く、紫かピンクの花が咲き、ハワイのビーチでよく繁殖しているのを見かけます。

Pōhuehue(浜朝顔)とプナ ケア(白珊瑚)は儀式で唱えられると、どちらも高波と関連があるとワイキキオールドタイマーの一人、Rayner Kinney 2007 13 日に語っているのをクラークは引用しています。「自分が若かった1930 年代の頃、pōhuehueはワイキキの至るところに育っていた。私の家族は高い波を呼びたい時ビーチの砂でマウンドを作り、pōhuehueの蔓でそれを包んだ。そして2つの白い手のひらサイズの珊瑚をマウンドの上に置き、母と伯母はそのマウンドの後ろに立ち、波を呼ぶチャントをハワイ語で唱えた。これがワイキキの風習で、昔のハワイアンは皆そのようにしていたんだ。」

また、もう一人のオールドタイマー、Wally Froiseth によれば、「1960 年代の半ば、日のカヌーレースの夕方の前にワイキキでハワイアンの男性がpōhuehueの蔓を持ち、海面をその蔓で叩き始めた。私は彼に何をしているのかと尋ねたところ、波を呼ぶように頼まれたからこうしているのだ、と答えた。すると翌日、その夏初めての大きなサーフブレイクがワイキキに起きたんだ。また、その冬、国際サーフィンチャンピオンシップがマカハで行われた際、コンテストの前夜に私はワイキキで見たハワイアンの男性と同じことをしてみた。すると翌日、マカハの波は驚くほどに上がった。」と2009 22 日に彼が語ったことをクラークは引用しています。

-伝統的なサーフスポット

クラークによれば、今日ハワイ主要8島では500 以上にも及ぶサーフスポットがあり、ネイティブハワイアンはその殆どのスポットでサーフィンをしていたそうです。ネイティブハワイアンサーファーは現代のサーファーと同じく、それぞれのスポットに土地の特徴、目印になるランドマーク、また波の特性などを元に名前をつけていたようです。

どの島もひとつふたつは大変有名なサーフスポットがあります。そこはサーフィンをするだけの場所ではなく、農作物や海産物のマーケット等、人々が集うコミュニティとして社会生活の中心であり、ハワイの王族たちに好まれていた場所でした。よく知られているのは、ハワイ島のヒロ、カイルア、マウイ島のハナ、ラハイナ、オアフ島のワイキキ、カウアイ島のワイルアなどです。中でもオアフ島のワイキキは群を抜いていました。

<ワイキキ>

コオラウの山から下ってきた水がダイヤモンドヘッドのふもとに湾のように広がる海に流出することで、海中の水路やリーフに影響を与え、それが類まれなるサーフスポットを作り出しました。ハワイアンはワイキキのこれらのすばらしい波がたつスポットにそれぞれ名前をつけていました。カレフアヴェヘ、アイウォヒ、マイヒヴァ、そしてカプニ、それぞれ現在のキャッスルズ、パブリックス、クナーズ、カヌーズです。カレフアヴェヘはオアフ島の南海岸で一番大きな波がたつ場所としてとりわけ有名でした。

ワイキキには、ウルコウ(現在のモアナサーフライダーホテルの場所)に住んでいた人の祈祷師(カパエマフ、カハロア、キノヒ、カプニ)の伝説があります。カヒキと呼ばれる異国から来た人の祈祷師はホノルルの人々の心身を癒していましたが、彼らがここを去る時ワイキキに4つのモニュメント(石)を置くように地元の人にお願いしました。2つは彼らが住んでいたウルコウに、残りの2つは彼らが大好きで泳いでいた海に置くことにしました。海に置かれた2つの石はカプニとカハロアと名づけられ、その後そこに立つサーフポイントがカプニとなり、ビーチがカハロアとなりました。

1800 年代中期から後期にかけて娯楽としてのサーフィンは全体的に衰退していましたが、カヌーサーフィンが1890 年代からワイキキで再び行われるようになり、1897 年にはワイキキビーチにカヌーサーフィンクラブが組織されました。英語圏の観光客にカヌーサーフィンが大変な人気となったことから、カプニはカヌーズと名前を変えました。カハロアも現在はクヒオビーチと呼ばれています。サーフィンの復活と共にワイキキのサーフスポットから全てのハワイ語名が消え、英語名に取って変わられました。カプニとカハロアはそれぞれ名前が変わりましたが、4つの石はワイキキ交番とデュークカハナモク像の間にワイキキの人々を見守るように今日もたたずんでいます。

ワイキキの昔と今を感じて日から来年(2016年)28 日までロングギャラリーで開催されるデューク・カハナモク展、そしてハワイアンホール階のコア製サーフボードの展示をどうぞこの夏お楽しみ下さい。

*参考文献 “Hawaiian Surfing” :著者 John R.K. Clark / University of Hawaii Press 2011 

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